2009年センター試験第7問
昔は唄は日々の生活の至るところに存在していた。仕事にリズムをもたらし、笑わせたり泣かせたりと人を感動させ、赤ん坊をあやしたりもした。今ではもはや列車や街道で、あるいは市場に向かいながらずっと歌っている老婆や農民に関する逸話は聞かれない。要するに、唄はかつてはどこにでも存在したのだ。農民や工場労働者が集まって単調な手仕事をする際だけでなく、移動中や誰かを待っている最中で働いていない時にも、唄は空気のように存在していた。
今日、単調な手仕事が全くなくなったわけではなく、また同様に移動する時間もなくなったわけではない。人は相変わらず列車や車で移動しているし、家事をこなし、バゲットを買いに今なお数十メートル歩いている。しかし何かが変わってしまったのだ。人々はもはや歌わない、殆ど歌うことはない。
人々が列車の中や街道、カフェといったを公共の場でもう歌わないのは、そうした場で歌うことが禁じられているからではない。むしろ他人の視線が問題なのだ。道を歩きながら、あるいはスーパーマーケットで買い物をしながら、人がもはや殆ど歌わなくなったのは、そうした些細な理由からなのである。知っている人であっても知らない人でも、人は他人の前では歌わない。家では一人きりでない時には歌わない。一言でいえば、歌うことが許可されているかどうかではなく、歌うだけの大胆さがあるかどうかが問題なのである。
唄は消費される音楽(テレビ、ラジオ、CDなど)のために、日々の生活から消えてしまった。もちろん、録音された音楽を締め出すことが問題なのではない。しかし、他者によって、他の場所、他の時間に作られた音楽を聞くことが、今ここで歌われる唄という自然でお金もかからない演奏の次に位置していることは、認めなければならないのである。
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