夏目漱石『こころ』1  (3月24日)
   「……私はこの夏あなたから二三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから宜しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時何とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。然し自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。御承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切な位の私には、そういう努力を敢てする余地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどうすれば好いのかと思い煩らっていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラの様に存在して行こうか、それとも……その時分の私は『それとも』という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。馳足で絶壁の端まで来て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のように。

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