45  (10月4日)
   もちろん、古代ギリシャ人は自身の自我や人格を、自身の肉体と同じように、経験によって知っている。しかしこの経験は我々の経験とは違ったふうに作られている。殊にギリシャ人の経験は外部に向かっており、内向するものではない。デカルトの有名な言葉「我思う、故に我在り」が、古代ギリシャ人にとっては何の意味も持たないということは、しばしば指摘されてきた。
   私が古代ギリシャ人だと仮定してみよう。たとえば私が存在するのは、私に手があり、足があり、感覚があるからであり、また私が歩き、走り、見て感じるからである。私はそうしたことすべてを行い、行っているということを知っている。私の意識は常に外部とつながっている。つまり私は或る物を見て、或る音を聞いて、或る痛みを感じていると意識している。個人の世界は、その独自性で各個人の人格を定義する内面宇宙という形をとるのではなかったのである。
  1. moi:ここでは名詞で「自己、自我」の意味。soiとほぼ同じ。
  2. fameuse:fameux(se)は名詞の前に置かれると「例の、問題の」でしばしば皮肉として使われるが、名詞の後では「有名な」。ただしどちらかと言うと文語。
  3. Descartes:言うまでもなく17世紀前半の哲学者・数学者。ちなみに「デカルト(哲学)の」という形容詞は、cartésien である。
  4. « je pense, donc je suis »:1637年に刊行された『方法序説』(Discours de la méthode)で述べられる命題。
  5. Supposons:supposer queの後は「仮定する」の意味では接続法だが、「推測する」の意味では直説法。
  6. que je marche:queはさまざまな意味の接続詞(句)の代わりに使われる。ここではもちろん puisqueの代わり。

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