彼はロビーを横切ろうとしていた。と、その時フロントの背後に暗いしみがあるのが目に入った。男が一人、大きく開かれた帳簿にじっと見入って、伝票をつけていた。男はリゴーがいることには気づいていなかった。リゴーの方は、その時もやはり踵を返して、部屋に戻るべき時だったのだ。しかし、あの夜、あのレストランで起こったのと同じように、眩暈が彼を襲った。彼はゆっくりとした足取りでフロントの方に歩いていった。男は相変わらず仕事に没頭していた。男の前まで行くと、リゴーは両手を開いて大理石のテーブルの上に置いた。すると、男は顔を上げ、こわばった笑みを浮かべた。
「煙草一箱欲しいんだが。クラヴァン、といったかな」リゴーは言った。それはあの夜と同じく、さも穏やかな口調だった。「でも、取り込んでいるみたいだね。また後で来た方がいいかな?」そう言うとリゴーは男が伝票を書き込んでいる冊子をあからさまに覗き込んだ。それは男がホテルの顧客名簿に載っていた名を書き写したリストだった。男は素気ない態度で冊子を閉じた。「帳簿をおつけになったことがおありで? 幾つか情報も集めてたんですよ。私がこうして働いている間、あなたは新婚旅行の最中というわけで…」
リゴーはうなだれていた。彼の前に、スーツの暗いしみがあった。皺だらけのスーツ。栗色のシャツの襟から小さすぎる黒いネクタイが垂れていた。男は煙草に火をつけていた。煙草の灰が上着の襟に落ちていた。突然、彼は奇妙な匂いがするのを感じた。煙草と汗と菫の花の香水が混ざった匂いだった。リゴーは口を開いた。「本当に、新婚旅行なんかしていて申し訳ないと思っているよ。でも、こんなものなんだ」そう言うと、彼は踵を返してロビーを横切り、エレベーターの方に歩いていった。
部屋ではイングリッドが相変わらず眠っていた。リゴーはベッドの足元に腰掛け、彼女のすべすべした子供っぽい顔を見つめた。彼はもはや眠れそうにないと判っていた。
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